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「いゝかね。あんたの身体はどこも悪くない」
「うむ」
「痛むか?」
「徳次」だの、「橋本屋」だの、「殺されかゝつてる」、「小倉組」だのいふ言葉がきれぎれに耳に入つた。
房一は何もかも忘れていた。日頃の思案深げな額の皺はいつそう強く刻まれていたが、それは却つて或る夢中な輝きを示していた。彼は何ものかに捕へられていた。何かが胸の奥深くでよびさまされているやうであつた。首筋に焼けつく日の暑さ、水流のきらめきや、絶えず水に濡れて黒く光つている沈み岩の頭、滲み出る汗と共に何かしら揉まれしぼり出される身内の或る物――それらは彼の幼時の記憶に確しつかりと結びついて、その頃の漠とした幸福感を近々と思ひ出させた。
正文はもう練吉に大した望みはつないでいなかつた。ただ一人前の医者にさへなつてくれたらそれでいゝと思つているらしかつた。それでも、目にあまるので何かと云ふと廃嫡といふ言葉を口にするのだつたが、効き目はなかつたやうである。そして、あんなに厳格だつた正文がこんなに度重る息子の不始末に、一々尻ぬぐひをしてやるのもふしぎであつた。
「去年はなかつたんですよ。何でも博労ばくらう同士のうちわ揉もめがあつたとかでね」
二人とも巻ゲートルに地下足袋姿であつた。そのうちの一人は印袢纏しるしばんてんを着ていた。房一の見たこともない連中だつた。だが、先方ではこの釣竿をかついだ猪首のやうな男が目ざすお医者だと気づいたのだらう、印袢纏の背の高い男は黄く汚れた半シャツの男に向つて、こちらを見ながら何か云つていた。
富田は庄谷の方に向きなほつた。
「どこの訴訟だ。なに鍵屋、うん、相沢か」
うまい工合だと感じた房一はすかさず云つた。
その苦痛を天城先生に訴えたら、洗眼器をかして下さった。入浴しながら、これを用いて、冷水で目を洗う。これを三分ぐらいやって、目をとじて、三十分、四十分、湯につかって、茫々去来するままにまかせておくのである。眼の疲れは急速に去った。目に水をそそいでから、ヌル湯にながく、ながく、ひたるということは、目の疲れとは別に、頭の疲れを払うためにもキキメがあるようだ。また入浴前に歯をみがいておくことも、いくらか入浴の頭に及ぼす効果を助けるようだ。
それからしばらくの間、房一は来る人ごとに、会ふ人ごとに、見舞の言葉を云はれた。彼等は房一の紅黒い顔をまじまじと眺め、そこにその晩の出来事のかけらでも見つけられでもするかのやうに、又何かしら話をひき出さうとし、同情し、感嘆した。そして、きまつたやうにつけ加へた。