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    と、彼は恐しく手まどつて答へた。

    と、房一は加藤巡査に云つた。御苦労だが、加藤巡査には角屋のところで本署の自動車を一先づとめてもらひたい。こつちは自分が引受けるから、こゝへ乗りつけないやうに何とか待たせていたゞきたい、その間にこちらの始末をつけ、自分が責任者になつて出向いてよく話をするから――。

    「――へえ、まだお帰りぢやないのかね」

    「怪我人ができたのかね」

    「さう、カワラケ、カワラケ云ひなさんな」

    時々、澄んだ甘い柔味のある、痩せたすんなりした身体つきを想像させるやうな盛子の声が、はじめは稍張りのある調子で起つて、途中で何かしらはにかんだやうに細く聞えがたくなり、又時々ピツと語尾が跳ね上るやうになつて響いて来た。それは身体の動きとは別に、声そのものが絶えずどこかに柔かくくつついたり離れたり、又そこらを歩きまはつたりしているやうであつた。

    「あれだね、君は見かけによらない――親思ひなんだね!」

    徳川末期に生れ、慶応、明治、大正と社会的な大変動の中を生きて来ながら、直造の生涯は世の多くの庶民と同じにその根底は単純きはまるものだつた。なるほど、今は白い曇りのできかゝつた直造の眼は多くのことを見て来た。長州の藩兵が疾風のやうに天領を席捲し東に通過した時には、土蔵に封印をし、大戸を下して一家中が山の上に逃げた。つゞく御一新はもとより、憲法発布も、日清日露の戦役も、更に今欧洲では大戦も始つていた。日本は青島を攻略した。だが、すべてこれらの出来事に対しても、直造達は別に広汎な知識も予見も持ち合せていなかつた。たゞ、彼等は見た、そして大きな流れにしたがつて生きた。それだけだつた。それは人為のごとくして実は巨おほきな自然だつた。或る時は曇り、或る時は晴れ、やがて突風が――そして稲は実り、刈られ、――あらゆる天変地異が、あの逆まく濁流が橋を流し堤を崩し、人家をその中に浮き沈みさせ、又木は薙なぎ倒され、作物は根こそぎにされ、――だが、それはやがて過ぎて行く。過ぎ去ると共にすべてはけだるい一様な調子の中にのみこまれ、遠のき、今日はじまる事もやがては又同じく過ぎ去るであらうと確信させるに至る、あの永い月日といふものの不可思議、その中に野や山と同じに自然に確しつかりと地面に立つて現れる物がある。それは「家」だつた。あの黒光りのする欅の柱、去年も一昨年も同じ所に造られた燕の巣。所々が剥げ落ち、雨で黒い汚点しみができ、又上塗りをされた白壁。あのかすかな弛みを見せながらなほ未だに堂々とした線を中空に張りわたしている苔こけのついた屋根。――この家が直造の安心を支へて来たのである。

    何かしら幸福さうな緊張した面持で竿をさしのべ、青味を帯びてゆらゆらする水の流れ工合や、川底に見える黒い大きな沈み石や、時々ひらめきもつれては又見えなくなる鮎の影などにぢつと眼をこらしている彼等の姿は河の上手から下にかけていたる所に見受けられた。それは服装の似通つているのと同じやうに身ゆるぎもしない立姿のために、ちよつと見たところではどこの誰だか殆ど見分けがつかなかつた。河瀬のだるげなどよめきと、絶えず通つている爽やかな風と、空の高みに白く輝いたまゝぢつと一所から動かうともしない雲や、時たま強い風にあふられてさつと白い葉裏をひるがへす対岸一帯の草木や、その風はもう終つたかと思ふと又下手の方で白い葉裏のざはめきが起つて、それは何か眼に見えない大きな手によつて撫なで上げられてでもいるかのやうに、次々と対岸の急斜面に現れて、やがてはるか下手の方に遠ざかつて行くのであつた。岩の上に、茂みの蔭に、また水際に、思ひ思ひの様子で立つている彼等一日作りの漁師達は、黙つて、ぢつとして、汗ばみながら、それら外界の大きく強烈な印象の前に頭を垂れ、それが彼等を軽る軽るとやさしく愛撫し抱き溶かしこんでいるのを感じているやうに見えた。

    川沿ひに細長く続いている河原町の通りは、地勢のせいでゆるい下り勾配をなしていた。所々で屋並みが切れて、そこには茶畑があつたり、空樽が乾してあつたりするかと思ふと、次の空地にはどこの家で使つているのか判らないやうな大きな井戸がその円く肥つた腹のやうな焼物の縁をたゞあつけらかんと日に照されていたりした。

    「よし!」

    近づきながら、何となくほの紅くなつて、中声で叫んだ。そして、房一の傍にいる小谷と徳次を認め、小腰をかゞめた。括くゝられてふくらんだ袖口からは気持のいゝ白い腕が露はれていた。

    小谷は疳高い声で云つた。

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